迷子の拵えた道標は正しいか

目標も張り合いもなく日々を過ごすので、苛々する。もし明日気が狂ったとしていささかも不思議はないなどと思われていた時分、丁度モンテーニュが「魂のつかまりどころとして、目標として立ち向かう対象を与えてやらないといけない。さもなければ自分の中で迷って前後もわからなくなる」と言うのでやはりそうなのだと、しかしだとすれば私の立ち向かう対象とは?

明日あるいは今、突然気が狂うのではと思われるのは大抵予定もなく人と会わないようにして過ごしている時だが、それは人に会うことで正気が保たれているというのではなく、人に会う際は正気を保たなければと必死に身を固くして耐えているだけなのである。人と会わないようにするのはそうして固くしていた身体をほぐさないといよいよ身動きが取れなくなってしまうからだ。

プルタルコスはいう、「われわれの中の愛情をつかさどる部分は、正当なつかまりどころを持たない場合、はたらかないままであるよりもむしろ、偽りのくだらない対象をこしらえだすのだ」

モンテーニュ、「偽りの、想像による目標を仕立てて、自分自身をあざむくのだ」

だとすれば、私は真の目標がないから"他人"という対象を目標にして自らを偽り、正気を保とうとしているだけなのだろう。他人を愛し(ているふりをし)、憎み、その感情や思案で精神の混沌を誤魔化しているだけなのである。だから度々ガタが来る。

無論、こうして真面目なふりをして御託を述べたとて、明日気が狂うという予感が失せることはない。真の目標(果たして、これは──)が出来るのが先か、気が狂うのが先か、他人事のように薄ら笑いを浮かべるのみである。